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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
スタンリー・オーエン・グリーン(Stanley Owen Green、1915年2月22日 - 1993年12月4日)は、「プロテイン・マン (Protein Man)」(「タンパク質の男」の意)と通称され、20世紀後半のロンドンで広く知られていた街頭のサンドウィッチマン〔 グリーンは25年以上にわたって、標語を記した大きなプラカードを持って、ウエスト・エンドのオックスフォード・ストリートを巡回していた。記されていた標語は、「Less Lust, By Less Protein: Meat Fish Bird; Egg Cheese; Peas Beans; Nuts. And Sitting(欲望を抑えるために減らすべし、肉、魚、鳥、卵、チーズ、エンドウ、豆類、木の実、そして、座ること)」というものであったが、年月を経て言葉遣いや語句の区切りが多少変化した部分もあった。タンパク質の摂取が人間を欲深く、攻撃的にする、という彼の主張の結論は、「better, kinder, happier people(より善い、より優しい、より幸福な人々)」になるために低タンパク質の食事をとる、という「protein wisdom(タンパク質の知恵)」であった〔。通りがかった人は、僅かな小銭を支払うと、14ページのパンフレット『''Eight Passion Proteins with Care''』(「注意すべき8つの激情タンパク質」の意)を買うこともできたが、一説ではこのパンフレットは20年以上の間に8万7千部を売ったとも言われている。その表紙には「このブックレットはときどき繰り返して読めば、一層役立ちます」と記されていた〔Green, Stanley. ''Eight Passion Proteins'' , accessed 6 May 2011. *Also see Ackroyd, Peter. ''London, A Biography''. Vintage, 2001, p. 189, and the image pp. 664–665.〕 グリーンは、ロンドンにいる奇行者たちの中でも最も好かれた人物のひとりだったが、それでも、欲望の抑制を訴えることは、ある評論家が述べたように、常に好意的に受け入れられるとは限らず、妨害行為を理由に逮捕されたことも2度あり、また、吐きかけられる唾から身を守るために、時には緑色の外套を着なければならなかった〔For the overalls, see Green, Stanley. "My own message to the streets," ''The Sunday Times Magazine'', 14 April 1985. *For the campaign to suppress desire, see Rowlands, Alun. ''3 Communiqués '', Book Works, 2007, accessed 26 April 2011.〕。しかし、グリーンは、近所で存在が知れ渡ることに大きな喜びを感じていた。「サンデー・タイムズ」紙は、1985年にグリーンへのインタビューを行なっており、「less passion, less protein(激情を抑えるためにタンパク質を控えよう)」という彼のスローガンは、ロンドンのファッションデザイナー・ブランド Red or Dead に流用された〔Blanchard, Tamsin. "Culture clash of the catwalk Titans" , ''The Independent'', 23 October 1995.〕。1993年にグリーンが78歳で死去した時には、「デイリー・テレグラフ」、「ガーディアン」、「タイムズ」の各紙が訃報を載せ、遺されたパンフレットや、プラカード、書簡類はロンドン博物館(Museum of London)に寄贈された〔"Londoners" , Museum of London, accessed 10 December 2008. *Also see Campbell-Johnston, Rachel. "The Galleries of Modern London" , ''The Times'', 13 May 2011.〕。デイヴィッド・マッカイ(David McKie)によれば、2006年にグリーンは、サンドウィッチマンとしては初めて『''Oxford Dictionary of National Biography''』に収録されることになったという〔McKie, David. "Pining for the boards" , ''The Guardian'', 21 July 2008.〕。 == 生い立ち == グリーンは、ロンドン北部のハリンゲイ(Harringay)で、瓶の栓を製造する会社の事務員だった父リチャード・グリーン(Richard Green)と母メイ(May)の間に、男ばかり4人兄弟の末っ子として生まれた。ウッド・グリーン・スクール(Wood Green School)に学び、1938年にイギリス海軍に入隊、第二次世界大戦を戦い、1945年に除隊した〔Carter, Philip. "Green, Stanley Owen (1915–1993)", ''Oxford Dictionary of National Biography'', Oxford University Press, May 2006.〕。 『''Oxford Dictionary of National Biography''』にフィリップ・カーター(Philip Carter)が記したところによると、この海軍における経験はグリーンに大きな影響を与えたという。グリーンは、水兵たちの性への執着にショックを受け、その後、1958年ころには、過剰にタンパク質を摂取することで、リビドー(性的欲望)が危険なまでに高まるのだ、と信じるようになった〔。1985年に「サンデー・タイムズ」紙に載ったコラム「A Life in the Day」のインタビューで、グリーンは次のように語っている。「何しろ開けっぴろげに話されるのでびっくりしたんです — 普通なら休暇で帰宅した時に夫が妻に言うようなことをですよ」、「もともと私は道徳的な人間でしたからね」。グリーンは性的過剰から自分の身を守るため、ポリッジ、自家製のパン、温野菜と豆類、1ポンド(およそ450グラム)のリンゴを日常の食事にしていた。「激情というのは大きな苦悩になることがあるのです」とグリーンは、同紙に語っている〔Green, Stanley. "My own message to the streets," ''The Sunday Times Magazine'', 14 April 1985.〕。 戦後、グリーンは美術協会(Fine Art Society)の仕事に就き、働きながら大学を受験したが、1946年にはロンドン大学への入学試験で不合格となった。その後は、百貨店のセルフリッジ(Selfridges)で働いたり、公務員になったり、イーリング・ロンドン特別区役所の倉庫番などをした。1962年には郵便局員となったが、やがて自営の庭師となり、生計を立てていたようだ。そして1968年に、グリーンは反タンパク質の主張を広めることにフルタイムで専念するようになった。グリーンは、両親が亡くなるまで — 父が1966年、母が1967年に他界 — 実家に住んでいたが、その後は、ミドルセックス州ノーソルト(Northolt)のヘイドック・グリーン(Haydock Green)にあるカウンシル・フラット(公営集合住宅)に入居した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「スタンリー・グリーン (サンドウィッチマン)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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